里山の本当の価値

 


「里山でのんびりと子どもたちと遊べて楽しそうですね」


児童養護施設の子どもたちとの里山開拓の取り組みについて
こういわれることが多くなってきました。そこにひかれて見学に来られる方もいます。


確かにそういった側面はあるのですが、
やや表面的にしか受け止めていただいていないのを感じる時もあります。


これは私たちからきちんと伝えられていないためであり、
私たちがボランティア活動として継続している理由もここにありますので、
改めましてきちんと里山の本当の価値について考えてみたいと思います。



2015年7月12日に行いました23回目の児童養護施設の子どもたちとの
里山開拓ではこんなことがありました。


当日は梅雨空から一転、夏の強い日差しの差す日曜となりました。
参加者は子ども4名、大人4名といつもよりはかなり小規模でした。


午前中は雨水を貯めるタンクの補修や土砂を使ったテーブル作成を
大人も子どもも一緒になって汗をかきながら進めました。


昼食は木陰の多い広場で氷水で冷やした夏野菜丸かじりとツナや野菜のバゲットサンドです。
がぶっとかじったトマトの水分が水不足になった体内を巡り始めるのを感じます。
食後のスイカ割りでは、子どもたちが目隠ししてぐるぐる回転して目を回してから
スタートし、みんなが協力して声や音でスイカの位置まで誘導します。
スイカは半分をみんなで切り分けて食べ、
残りの半分は中身をくりぬいて果物を追加したフルーツポンチにしました。


おなかもからだもこころも満足感に溢れながら午後の自由時間に入りました。


コナラやヤマザクラが枝や葉を競って拡げる間から差し込んだ日差しが
作ったばかりのテーブルと食事をスポットライトのように照らしていました。
中学2年の女の子はそんな空を見上げて、
「写真が撮りたいのでカメラを貸してほしい」と言いました。
今回参加者では最年長で、小学5年のときから参加している、
いつも冷静で年下の面倒見がいい子です。


木立のどこか、かなり近いところで「ピュルリ、ピュルリ、ピュリリリリ」
と小鳥の声がしました。その女の子がすぐ口笛で同じように真似て返しました。


すると、小鳥が女の子に「ピュルリ、ピュルリ、ピュリリリリ」と
鳴き声を返してくるではないですか!


女の子は面白がって同じように少しだけ変えて口笛で応じました。
すると、また小鳥はほんの少し違った鳴き声で返してきます。


周りにいたみんなも驚いて注目する中、また女の子が少し長めの口笛で応じてみます。
すると、またまた小鳥は違った鳴き声で返答してきます!


こんなやりとりが5回くらい、時間にしたら1分くらい続いたでしょうか。
別の女の子が「どこ?」と大きな声を出したのに驚いて飛んで行ってしまい、
小鳥との会話は残念ながらそこで終了してしまいました。


でも、少なくともこの1分間には、小鳥と私たちは同じ空間と時間を共有して
お互いを受け入れようとする試みがありました。


私たちからは小鳥の姿は見つけられなかったのですが、
きっと小鳥はじっとみんなを上から見下ろしていたでしょう。
小鳥は女の子の口笛をどう受け止めたのでしょうか。
「仲間に入らない?」とか「仲間にいれて!」といった感じでしょうか。


女の子だけでなく周りの誰もがなんとかこのやりとりが続かないかと一心に願っていました。
なぜみんなが一心になったのかとても不思議なことですが、
このやりとりの先に、何かこれまで見たことも感じたこともない、
とてつもなく大切なことが待っているのをみんなが同時に直感したのかもしれません。


最終的には私たちは、小鳥と同じ空間と時間を共有してお互いを受け入れるところまでは
入っていけませんでした。


でも、少なくともその入り口に立っている実感がありました。
そのとき小鳥は、単なる自然観察の対象などではなく、
他人からの情報のレッテルなど介さずに直接つながりたい仲間としての存在でした。



話が長くなってしまいましたが、何が言いたかったのかというと、
里山の本当の価値というのはここでの出来事のように、
つまり「自らが主体的に自然や仲間とかかわることで

つながりを実感できること」にあるということです。


私たちがここでやろうとしているのは、
荒れた里山を大人も子供も一緒に汗をかいて開拓し
自分たちの居場所を作り出し、お互いの信頼関係を作り上げながら
自然とのかかわり方を試行錯誤することです。


里山がキャンプ場や自然学習施設、あるいは登山とどう違うのか聞かれることもあります。
一番の違いは、木を伐るなど自然と直接自由にかかわることが許されていることです。
そして、足しげく頻繁に通って時間をかけて自然とかかわることも特徴です。


もちろん単に自然体験や環境学習が目的であれば
あえて手間をかけて荒れた山林に手を入れるところからはじめなくとも、
すでにたくさんあるキャンプ場や自然学習施設、登山の機会を利用する方が
はるかに時間も手間もかかりません。


でも、そこでは誰か(たいていは大人)によって
「やるべきこと」と「答え」が先に用意されていて
どこか自然の中で「宿題」をやらされているかのように
参加者が感じる取り組みがしばしばあります。
このような取組みのなかでは、
「自らが主体的に自然や仲間とかかわることでつながりを実感する」
ことは難しいと思っています。


そして、私たちはこの里山の価値を本当に大切なことのために生かそうとしています。
それは、単に森で子供たちと楽しんだり学んだりするためではなく、
現代都市社会の問題解決に貢献することのために生かすことです。


私たちの暮らす現代都市社会は一見豊かに見えますが、
巨大になりすぎた社会構造や組織の中に組み込まれた多くの人の心に
つながり・やりがいへの喪失感、無力感、無関心があふれています。


そういった自覚のある人はまだ正常な方で、
もうすでに自覚のない人こそすでに現代都市社会の病に
深く侵されてしまっているのかもしれません。
特に社会的に強い立場にある人の方こそ、
現代都市社会は自然環境や社会的弱者の犠牲の上で成り立っているのに
つながりも責任も感じない無関心が蔓延しているのを感じます。

そしてそれ自体が現代都市社会の問題を解決できない原因にもなっていると考えています。


私の目からすると、荒れた里山は現代都市社会の犠牲となっている自然環境の象徴であり、
児童養護施設の子どもたちは現代都市社会の犠牲となっている社会的弱者の象徴です。


荒れた里山が、現代都市社会の動きに翻弄されて今に至っているのはご承知の通りです。


児童養護施設の子どもたちは現代都市社会の抱える様々な問題に起因して両親から離れて施設で共同生活を送っています。
施設内では多くの民間の心ある人たちの支援と公的な支援によって支えられていますが、
18歳になったとき施設を卒業して独り立ちしていかねばなりません。
そして、現代都市社会の厳しい現実にも耐えて、たくましく生き抜いていかねばなりません。


私たちの里山での活動ではできるだけ自然の恵みを工夫して生かし
自分で試してやってみることを重視しています。
幼稚園児であってもやってみたいという子には昼食の焚火係を任せます。
そんな経験の積み重ねこそがやがてたくましく生き抜くために必要な「自信」につながると思うからです。


私たちは、この里山が家庭を失った子どもたちにとって、

あるいは、つながりややりがいを見失いつつある多くの人たちにとって
「ふるさと」のような存在になれたらと思っています。
ふるさとは、暖かく見守ってくれる人と一緒に意義ある経験を重ねた場所であり、
将来いつか迷ったとき・困ったときに思い出して心の支えや拠り所になってくれる存在です。


東京里山開拓団ではこれからも「自らが主体的に自然や仲間とかかわることで
つながりを実感できる」里山の価値と可能性を信じて荒れた里山を開拓し、
「現代都市社会の問題解決に貢献する」新たな活用の道を伐り拓きたいと考えています。


 

                 2015年7月 東京里山開拓団・堀崎茂


 



 

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