目指すところ>代表の思い>里山のチカラ(2016年10月)
里山の特別なチカラ
私たちが里山という場所にこだわりをもって、ボランティア活動を続けているのには訳があります。それは、里山には特別な「チカラ」があるからです。行ったことのない人にはちょっと大げさに聞こえるかもしれませんし、もっと壮大な大自然だってたくさんあるのに、なんて思われるかもしれません。
でも、私がそう断言できるのは、こんな実体験があるからです―—
2016年9月25日、久しぶりの里山開拓を児童養護施設の子どもたちとともに行いました。夏の暑い時期は少しお休みしていたため、2か月ぶりです。東京都大田区にある救世軍・機恵子寮の子どもたちとここに来るのももう32回目になります。夏の射るような日差しはもうどこかへ過ぎ去ってしまい、肌に心地よい秋の風がまだふさふさしていないススキの穂を揺らしていて大地にとっても心地よさそうでした。
午前中は、森の恵みを活用した工作を行いました。といっても、自然工作教室のように、こうやって作ってください、という教育指導的な進め方ではありません。自分が作りたいものを自然の恵みを活用してどうやったら作れるか子どもと大人が想像を膨らませながら進める自由時間的な進め方です。ちなみに、私は手作りの便座を土管に付けた洋式トイレづくりにチャレンジしました。里山に設置していた穴を掘って板で足場を作っただけの和式トイレが使いにくいという声があったからです。
小学生のA君は、児童養護施設側で参加した中で最年少で、今回の参加が2回目でした。うちの子どもと歳が近いので、二人でピカチューのなんとかを石で作ろうなんて盛り上がったかと思うと、ハンモックの場所を争って取り合ったりしていました。2回しか会っていないのに、すぐにここまで深い関係になれる子どもたちを少しうらやましく思いました。
お昼はバーベキューです。といっても里山ではアウトドアグッズなんてもちろん使いません。かつて現地で集めた石と粘土で手作りした石かまどをつかって枯れ木を集めて火起こしする「たき火係」と、野菜やお肉を切って串に刺して準備する「料理係」に分かれて準備を進めます。A君はうちの子とともにたき火係を担当します。ここでも二人は相変わらずライターやうちわの順番を争ったりしていたのですが、やがて木にしっかり火がついて勢いよく立ち上がった炎が二人を黙らせました。串刺しにしたバーベキューは鉄板の上に並べて焼いてみたものの、火の通り方にばらつきがあったので結局ばらして炒めて、自分の好きなのを皿からとって食べる形になりました。
A君、その隣には5年前からずっと一緒に里山の活動を続けてきた施設職員、私の3人が並んで盛り付けられた出来立てのバーベキューの皿を前に立っていました。おいしい、おいしいなんていいながらほおばっていると、A君が突然、笑顔でこう話出したのです。
「ぼく、お父さん、お母さんと一緒に恵比寿のレストランに行ったことがあるよ」
「恵比寿のどこ?」と施設職員の方がすぐに聞き返しました。
「駅の近く」とA君は答えました。
「それならガーデンプレイスかな」と私がつぶやきました。
その話題はそれ以上深まる訳でもなくたったそれだけで終わりました。
しかし、しばらくしてA君がその場を離れたとき、施設職員の方が私にこう伝えてくれたのです。
「実は、A君のお父さん亡くなっているんです」
その時、当たり前のように両親のいる家庭を思い浮かべて会話に加わっていた私は返す言葉に詰まってしまったのですが施設職員の方はこう続けてくれました。
「でも、職員がこれまでお父さんのことを聞いても全く話してくれませんでした」
「これも里山のチカラでしょうか」
ちょうどA君がたき火であぶったマシュマロをもって帰ってきたのでこのやりとりもそこまでになりました。そのとき、私はおいしそうにかぶりつくA君の丸くて黒いつぶらな瞳を見ながら心の中ではっきり確信したのです。
そう、これがまさに「里山のチカラ」に違いない――
里山のチカラとは
この時起こったことというのは、お父さんを亡くした児童養護施設の小さな子どもが、職員でも聞いたことのないようなお父さんの話を、里山で自分から語りはじめた、という事実です。
子どもたちの個別の事情は聞かされていないので、ここからは私のまったくの想像になりますが、A君には本当につらい別れがあったのだろうと思います。そして小学生にもなると、周りの友達からいろんな家庭のことを聞くようにもなるでしょう。つい周りと比べて今の現実をつらく感じなくてすむようにお父さんのことを心の中に封印していたのかもしれません。
お父さん、お母さんとただ一緒に食べているだけで楽しくて、何を食べてもおいしくて、他と比較することなんて何の意味も感じられないくらい暖かく幸せな時間を過ごした大切な記憶。そんな記憶をこの里山でふと思い出して自分から話してくれたのです。これは里山という環境こそがA君の固く閉じていた心を解放してくれたからに違いありません。私の経験からも、里山にいくとたいていの人はすぐに心が解放されます。
まず私自身が10年前に心を開かれてしまって以来ずっとここに通い続けていますし、児童養護施設の子どももたいていは初回からはまって、繰り返し参加してくれます。初めて参加した大人もほぼ全員が初対面の仲間とともに里山を心から楽しんでいきます。過去につらい経験のあった子どもたちの固く閉ざした心を即解放してしまうくらいですからそのチカラ強さは目を見張るばかりです。そしてもし里山という環境が心に封印していた幸せな記憶まで呼び覚まして追体験させてくれたとしたら、これはとてつもなく価値のあることのではないかと思ったのです。
なぜなら、かつて幸せだったという記憶だけなら現実をよりつらく感じさせるばかりかもしれませんが、もし幸せを少しでも追体験できる場が今もあるなら――きっと、それは厳しい現実に直面しても乗り越える心のよりどころに変わるのではと思ったからです。
フランスが生んだ20世紀最高の作家の一人・サン・テグジュペリは代表作『人間の大地』のなかでこう言っています。
ああ、家のありがたさは、それがぼくらを宿し、
ぼくらを暖めてくれるためでもなければ、
またその壁がぼくらの所有だからでもなく、
いつか知らないあいだに、ぼくらの心の中に、
おびただしいやさしい気持を蓄積しておいてくれるがためだ。
人の心の底に、泉の水のように夢を生み出してくれる、
あの人知れぬ塊を作ってくれるがためなのだ。
私は、この言葉を「心の中にやさしい気持ちを蓄積して、あふれる夢を生み出してくれるような存在は家のもつ本質を肩代わりできる」という意味で受け止めていて、里山は深く関わればそんな存在になることができると思っています。だからこそ、児童養護施設の子どもたちとの里山開拓にはより大きな意味があると考えて取り組んでいるのです。
心を解放するチカラがある理由
しかし一体なぜ、里山には人の心を解放するチカラがあるのでしょうか。ここには現代都市社会の生活では当たり前なものがなにもなく、代わりに普段は意識もしない自然の恵みにあふれています。そんな里山では誰もが着飾ることのない素の自分に戻れるからではないかと私は考えています。
・お金とか知識とか立場とか権威とか年齢とか学歴とか経歴とか、普段の生活の中で大切にされているものが役に立たず意味を持たないところ。
・自然の恵みを直接活用するという点ではみんながほぼ同じく素人で、一緒に工夫しながら力を合わせないと大したことはできないところ。
・誰からもやるべきとかやらなければと強制されることのない時間があって、自分一人では何もできないと率直に感じられるところ。
・普段、生きるために必要なことなんか分かっているつもりだったのに、実はほんの一部しか知らないことが白日の下にさらされるところ。
・普段の私たちの生活や社会は自然という大きな存在と直接つながっていて、その上で成り立っているという当たり前のことが改めて実感できるところ。
・普段、環境問題、大量生産・大量消費、階層化・二極化、無力感の蔓延といった現代都市社会の問題について、所詮は自分を脇に置いて考えているふりをしているだけだったと思えるところ。
・現代都市社会というのは過剰なまでの競争のなかで全体が疲弊していくばかりなのに、一方で自らたくましく生き抜く多様な生命の存在が全体調和を生み出しているところ。
・普段の私たちの暮らす現代都市社会はあまりにも構造化・分業化・経済化されすぎてしまって本当に豊かさに向かっているのか疑問に感じてしまうのに、自然の恵みを直接いただくことで自分たちの生活はもっと人間らしい豊かさを取り戻すことができるに違いないと確信させてくれるところ。
・そういったすべてのことが子どもにとっても大人にとっても新鮮で心地よくて清々しく感じられるところ。
こんなところは、いつもの学校や家庭にはもちろん、観光施設にも、野外教室にも、触れることの許されない大自然にも――言い換えると、他の誰かによって管理されているところには、そうあるものではありません。ところが、そんなもはやありえないような場所が、意外にも私たちの暮らす東京都心からさほど離れていないところにあったのです。何十年も社会的にも経済的にも価値なしとされ地元からも地主からも誰からも見向きもされずに放置されたままの状態で。
東京里山開拓団の目指すところ
私たち東京里山開拓団はすでにしっかり管理された里山に通って学ぶという形ではなく、荒れた里山を自ら開拓するという姿勢をはじめから貫いています。それは誰かに作り上げられた里山に行くのではなく、自ら里山を作り上げていく過程に参加するときにはじめて人の心を開くチカラを最大限に発揮してくれると思うからです。
再び、サン・テグジュペリの『人間の大地』は冒頭でこう語りはじめます。
ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。
理由は大地が人間に抵抗するがためだ。
人間というのは、障害物に対して戦う場合にはじめて
実力を発揮するものなのだ。…
農夫は、耕作しているあいだに、いつかすこしずつ
自然の秘密を探っている結果になるのだが、
こうして引き出したものであればこそ、
はじめてその真実がその本然が、世界共通のものたりうるわけだ。
そう、私たちは荒れた大地の開拓を通じて自然の秘密を少しばかり探り出したのです。
その秘密というのは、「里山には心を解放するチカラがある」ということです。
もし、そのチカラを本気で発揮できたなら、里山の社会的価値は児童養護施設の子どもたちにとどまらず、現代都市社会でやりがい、働きがい、生きがいの喪失などに苦しむさらに多くの人のメンタル対策にも効果を発揮することでしょう。東京里山開拓団の次なる活動の柱として、メンタル対策や強化に取り組む企業に里山での研修を提供する試みにも取り組みはじめています。
きっと外から見ると、私たちはただ童心に帰って、森で工作したり、バーベキューをしたりすることを楽しんでいるように見えるでしょうし、そういったボランティアをする団体に見えるでしょう。しかし、森の工作やバーベキューは手段の一つにすぎません。私たちが目指しているのはその先のところにあります。それは、現代都市社会のひずみの中で本当に支援を必要とする人とともに荒れた里山を開拓すること、それを通じて得られる里山のチカラ=心を解放するチカラによって、現代都市社会の課題克服に貢献するところにあるのです。
2016年10月 東京里山開拓団 代表 堀崎 茂