NPO法人 東京里山開拓団

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

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 目指すところ>代表の思い>環境省&厚労省からのダブル表彰(2020年11月)

 

環境省への申請書


環境省&厚労省からのダブル表彰

2020年11月、東京里山開拓団は第8回グッドライフアワード環境大臣賞・最優秀賞として表彰いただけることが決まりました。昨年度は厚生労働省・子ども家庭局長賞(第8回健康寿命をのばそう!アワード・団体部門優良賞)を受賞していますので、環境省&厚労省からのダブル表彰ということになります。

環境省報道発表:第8回グッドライフアワード」環境大臣賞最優秀賞等が決定

厚生労働省主催:第8回健康寿命をのばそうアワード受賞発表

個人的には9年間で67回に及んだ児童養護施設との里山開拓を行うなかで、子どもたちや施設職員、会員の笑顔と里山自体の心地よさから十分すぎるほどの満足感を感じていましたが、さらに公的な表彰までいただけるということでまた別の思いを感じています。

どんな思いでいるかといいますと、ほめられたことがうれしいというよりも、これで不審者扱いされずに済むとほっとしたのです。私は15年前に東京・八王子郊外の荒れた山林に通い始めたのですが、地元の方から(私のかつて住んでいた)名古屋ナンバーの車がよく来るようになったと怪しむ目で見られたり問い詰められたりしたことが何度かあります。その後少しずつつながりもできてきましたが、それでもイノシシも出没する何十年も放置されてきた山林に子どもたちを連れて足しげく通うなんて、まるでハーメルンの笛吹き男のように思われているかもしれません。それでこれからは公的な表彰の力でそんな目で見られることも減るかもと思っているのです。

さらにいうと、これでほら吹き扱いされずに済むという安堵の気持ちもしています。私はずいぶん前から環境保全と児童福祉を一石二鳥で進める他にない取組みだなんて吹聴しながらすでにたくさんの人をこの活動に巻き込んできてしまっているからです。ただ、それが実現できているかは長い期間継続してそして振り返ることでしか検証できないのです。これらの表彰が何かの証明になる訳ではありませんが、社会から一定の評価が得られる状況にはなってきたと言えるようになってよかったと考えているのです。

そんな訳で今からここでは少しばかり落ち着いた気持ちになって、改めまして児童養護施設との里山開拓を振り返り自分なりにさらに深く見つめてみたいと思います。これまでにも活動の意味や価値については何度も文章に書いていますので、すでに読んでいただいた方は、またその話か、もう聞きあきたよなんて思われるかもしれませんね。ですが、物事は違った角度で見つめ続けることで、思考対象への理解がさらに深まり、それが礎となって行動を促し、やがては行動を継続する信念が生まれてくるものです。ボランティア活動というのは権力や権威、お金の力に頼ることができないので、最終的には自分の信念だけが活動継続の生命線となるのです。私がそう多くの人が読むはずもないところに相当な時間をかけて文章を書き続けているは、私自身の心の中でそういった信念を固めたいからでもあります。


一石二鳥の相乗効果

さて続けますと、いま全国には12万のボランティア団体があると言われますが、2つの省庁から表彰を受けたことのある団体なんてほぼ見当たらないと思います。なぜでしょうか?

現代社会の抱える社会課題というのはあまりにも広範囲に及びます。戦後の日本政治では社会福祉制度の拡充が急速に進められました。社会課題それぞれを管轄する行政機関が決められ、多くの税金を割り当てられて、専門家や専門業者がその施策を支える構造が出来上がったのです。そんな構造は個人の思考の方にも大きな影響を与えます。例えば学校、本、広報、仕事、資格など通じて、たいていは長いものに巻かれるように思考の枠組みが形作られていくのです。

そのため、個人が何か考えよう、取り組もうとするときにもその社会構造や思考の枠組みをはみ出すところになかなか至りません。誤解を恐れずに言うなら、そんなことをしても周りからすぐ評価されることはなく、批判されることさえあるからです。さらにいうと、いざ何か活動を進めてみると行政からの助成金や補助金、企業他からの業務委託などのお金の流れに合わせようという強い力学も働きますので、さらに枠を乗り越えるのが難しくなっていきます。

それでも、現代都市社会の課題が効果的に解決に向かっているのなら問題はありません。しかし、現実は逆で、社会の課題は本当の解決策が見えないまま拡がってより複雑化しているのです。それは一体なぜでしょうか?

近頃は社会課題解決の進め方に問題があるのであってお金のチカラあるいはビジネスのやり方で社会課題を解決すべきという風潮があります。ただ、ご存知の通り普通のビジネスでも10年続く会社など一握りで、ソーシャルビジネスの場合はさらに厳しい環境におかれます。私には継続性の観点から考えるとお金やビジネスのやり方が社会課題を解決してくれるとは到底思えず、もっと社会課題の本質的な原因と対策を考えるべきなのではと思えるのです。

私なりに考えた末の結論からまずお伝えしますと、社会課題を解決しようとして生まれてきた構造や枠組みそのものに大きな原因があるように思えるのです。社会課題を解決するために生まれた構造が継続するなかで既得権益化、縄張り争い、縦割りといった問題が引き起こされ、社会課題の解決自体よりも組織構造の維持存続そのもの、もっというとその沼にはまり込んでいる人が表面的に何かしたふりをしながら自分自身の立場を守ることばかりが優先されて、肝心の課題解決など後回しにされているようにさえ見えます。

私が本当に小さなボランティア活動なのに「荒れた山林の開拓と活用を通じて現代都市社会の課題克服に貢献する」なんて大きな目標を掲げて取り組んできた目線はまさにここにあります。「環境」の世界と「福祉」の世界についても、現行社会制度の中では大きくかけ離れた位置づけでそれぞれが枠組みと構造を持っています。管轄省庁も、専門家も、専門業者もおおよそ関わることなく別々に存在し、建前の目標とは裏腹に、自らの存在の維持と拡大自体が最大の目的となります。ただ、私たちは評論家ではなくボランティアなのでそんな現状を批判だけしていても意味がありません。社会の大きな枠組みや構造などとは全く無縁なのを逆手にとって、自由に発想を拡げ、しっかり現場のニーズをとらえて、そして何より自然とボランティアのチカラを最大限に生かして、組織やお金や権威の力に依存しない社会課題の新しい解決の道が存在しうることを実際に示したかったのです。

そんな大きな目標を抱きつつ、私が荒れた山林に通いながらずっと考えていましたのは、里山のもたらしてくれる最も高い付加価値とは一体何だろうということでした。そこを固定観念で考えてしまうとこれまでの状況から抜け出せないと思えたからです。自然からの恵みやエネルギーをお金に変える試みなどはよくよく考えないと単なる自然のたたき売りになってしまいます。わたしなりにたどり着いたのは、里山の最高の付加価値というのは「人の心を開くチカラ」なのではないかというところでした。里山に招待した誰もがまた来たいと満面の笑顔に変わるのを目の当たりにしたからです。

あわせて、私はかつて取り組んだ児童養護施設の子ども支援ボランティア経験を思い出しながら、最近ニュースでよく見かける虐待で亡くなったあの子には本当は何が必要だったのだろうということでした。それは、いい建物やいい商品に囲まれた仮住まいの環境や、矛盾をはらんだ社会の構造に無理に合わせて自分の将来を想定し自らを変えていくことではないのではと思えました。そしてわたしなりにたどりついたのは、将来どんな状況にあろうともありのままの自分を受け入れてくれてくつろいでいられる場所、すなわち「ふるさと」なのではないかというところでした。

そして、この両者が私の頭の中でふいっとつながっていったのです。それが、荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとボランティアのチカラで伐り拓き、そして里山のチカラを生かしてふるさとを自ら創り出すという構想なのです。

みなさんはもしかしたら、いやいや、無理に枠組みを超えて一緒にしてやらなくとも、里山保全は環境ボランティア、児童養護施設支援は児童ボランティアがそれぞれやればいいのでは?と思われるかもしれません。それぞれの領域でしっかりと活動を継続している立派なボランティア団体を私もいくつも知っています。ただ、課題がいろいろと存在することも知っています。例えば、児童ボランティアの課題の一つは、子どもの心を本当に開くレベルに到達できるかは個人の力量に相当依存してしまうところにあります。環境ボランティアの課題は、自然は言葉を返してくれないのでモチベーションが維持しにくく活動が継続されにくいところにあります。

そこで私はこんな想像をしたのです。里山のチカラをもってすれば深い悩みを抱える子どもたちの心さえすぐに開いて、ボランティア個人の力量を超えた成果を発揮してくれるのでは?子どもたちの笑顔があれば周りの大人たちをがぜんやる気にさせ、何十年も放置されていた荒れた山林が里山として保全され続ける原動力になるのでは?居心地のいい場ができることで退所後もつながりを維持できる場になるのでは?お金なんか大してかけなくとも、自然の恵みを最大限に生かすことで子どもたちが求めて止まなかった「ふるさと」というプライスレスな場所が生まれるのでは?・・・そんな思いはやがて児童養護施設との里山開拓を実施する中でことごとく実現していきました。これこそが、環境保全と児童福祉の一石二鳥がもたらす相乗効果なのです。

それはつまるところ、莫大な税金を投入し続けなければ継続できない現行社会のやり方に対する私たちなりの問題提起なのです。これまで社会構造のなかで広く行われているのは、いわば、行政が支援されるべき対象のために税金をかけてその分野の専門家に事前調査させて専門業者が委託のある限りは実行されるけれど委託がなくなれば終了する、「支援ビジネス」の関係です。そうではなく、枠組みを超えて課題を抱える二つの存在自体が支援される立場を乗り越えてお互いのチカラをフルに生かしお互いにメリットをもたらす「お互い様の助け合い」関係なのです。

ただ、一石二鳥を考えるのはそう簡単ではありません。それはまず自らの固定観念を打ち破ること、多くの場合は自己否定から始めないといけなくなるからです。例えば、「荒れた山林に手を入れるのはいいこと」、「里山整備は専門業者や経験あるボランティアが行うこと」、「児童養護施設の子どもたちは支援される弱い立場」なんていうのも固定観念の一部なのです。私たちは本当に価値ある一石二鳥の実現を求めて、ひたすら里山の現場に通い続け、たくさんの児童養護施設にアプローチして意見交換や情報収集を続けました。里山に足しげく通いすぎて不審者に思われようとも、いくつもの児童養護施設には断られようとも。時間も手間もかかりすぎてとても残念なことに去っていった仲間もたくさんいましたが・・・

しかし振り返ってみると、思考&試行錯誤にかかる時間や手間を惜しまなくて本当に良かったと思います。そうすることではじめて本当に同じ方向を向いて動ける方とのご縁ができてくるのです。9年間ずっと一緒に取り組んできました救世軍機恵子寮・高田施設長とのご縁もまさにそうです。何事もアイデアがいいからうまく行くのではありません。答えだけ他人に聞いてみても何も生まれてはきません。アイデアを元に思考&試行錯誤を重ねて行動に移すからこそご縁が生まれ、そこから本当に価値ある成果が生み出されていくのです。

こう話してみても、もしかしたたら児童養護施設との里山開拓はたまたま成立しただけのニッチな領域の特殊ケースなのではと考えられる方もいるかもしれません。しかし、私にはそうではないとはっきりいえます。言い方を変えますと、私たちは「場所X」×「対象Y」という数式をつくって、変数Xに「荒れた山林」、変数Yに「児童養護施設」を入れて演算してみただけのことです。Xには、荒れた山林でなくとも、放置された田畑でも汚された海岸や川辺でも都会のなかの空間であってもきっと入れることができます。Yには、児童養護施設でなくとも、福祉施設、教育機関、企業、地域、その他様々な対象が入れられます。大切なのはどんな変数を入れるかを考える想像力とそれを実現するための行動力であり、それがあれば無限の解が生まれてくるのです。


古くて新しい社会課題の解決方法

ここまで話すと、私たちが何か新しいことを思いついてやりはじめたかのように聞こえたかもしれません。でも正直にいうとそうではありません。実は、私たちの活動のベースにあるのはむしろずっと古くからある発想であり、現代社会の状況に合わせて少しばかりアレンジしたにすぎないのです。

哲学者・内山節さんの『「里」という思想』という本に、自らの住んでいる群馬県上野村の老人から聞き取ったというこんな話が出てきます。

その頃(注:昭和30年頃)までは、たまに、いろいろな理由から経済的に困窮してしまう村人がいた。こんなとき村(注:群馬県上野村)では、<山上がり>をすればよい、といった。<山上がり>とは、山に上がって暮らす、ということである。森に入って小屋をつくり、自然のものを採取するだけでたいていは一年間暮らす。その間に、働きに行ける者はまちに出稼ぎに出て、まとまったお金をもって村に帰り、借金を返す。そのとき、山に上がって暮らしていた家族も戻ってきて、以前の里の暮らしを回復する。・・・(中略)・・・

<山上がり>をするという家族がでたとき、村には共同体のルールがあった。ひとつは、<山上がり>をするときは誰の山に入っても、必要な木を誰の山から伐ったりしてもよいということ、もうひとつは、みそだけは集落や親戚の者が十分にもたせなければならなかったことである。

私は、社会福祉の思想も制度も未熟であったと考えられてきた戦前にあって、里山こそが社会福祉の根幹を担っていたという事実に大いに驚きを感じるのです。もしかしたら里山のチカラを社会福祉に生かす発想というのは、戦前はおろか、大都市の生まれた江戸時代、いや商品経済が拡まった室町時代、いやいや里山をフルに活用して人々が暮らしていた縄文時代にまでさかのぼることができるのかもしれません。私は大いなる里山のチカラに気づきそれを社会を支えるためにフル活用してきた日本人の知恵と文化に畏敬の念すら感じるのです。それに比べたら、自らの社会が荒れた山林を生み出してきたのに邪魔者扱いしかできずもはや頭の中から存在を消そうとさえしている現代人の思考などなんと貧素に見えることでしょう!

戦後日本にあっては奇跡の経済発展と社会制度拡充のなかで人々は舞い上がり、人間社会も実は自然の大いなる豊かさの上に成り立っているという原点などすっかり忘れ去って、自然に立ち戻ることなどまるでプライドが許さないかのように拒絶してきました。今や、経済的疲弊、社会制度疲労、社会課題拡大がはっきりとしてしまい、日本は本当の意味で持続可能な形で社会問題を解決する方法を見失ってしまったかのようです。おそらくは戦後の数十年だけが特別に経済的に恵まれた時代であったと考えるべきなのでしょう。私にはいつまでもそんな時代の持続できない幻想にしがみつくのでなく、お金や組織、硬直的な思考に依存した解決方法への執着などいったん脇に置いて、自然のチカラを生かて自らのチカラをフルに再生させるという古くて新しい社会問題の解決方法を模索すべき時が来ていると思えてならないのです。

今回の思索はここまでにしたいと思います。また大きな風呂敷を広げてしまいましたので、これからもほら吹き扱いされるかもしれませんが(苦笑)。私たちは表彰されはしましたが、実際にはまだ本当に小さな小さな成果を出しただけです。それでも、私たちはこれからも新たにご理解やご協力いただける方々とのつながりを拡げて、願わくば、全国の荒れた山林と全国の児童養護施設に活動を展開し、やがてはそれが社会課題の古くて新しい解決方法のモデルケースになっていけたら、とさらに大きな妄想を拡げている真っ最中なのです。

2020年11月

東京里山開拓団
代表 堀崎 茂

 

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