NPO法人 東京里山開拓団

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

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 目指すところ>代表の思い>児童養護施設との里山開拓第2回「未知の世界の開拓者」(2012年4月)

2012年4月15日、児童養護施設の子どもたちとの第二回目の里山開拓を実施した。参加は施設の子ども7名、引率の先生2名、開拓団側は協力団体含め9名。

前回、初対面の子どもと大人が即一緒に楽しめたことで里山という場の持つ力には深い感動さえ覚えた。
今回は、もはやお互いに知らない人ではなく、里山は知らない場所ではない。そしてまた私の想像を超えて実りの多き里山開拓となった。

バス停から15分ほど昨日の雨でぬかるんだ山道を上る。足を滑らせて苦労しながらも第二広場に到着。子どもたちの思いっきり遊びたいという気持ちが容易に感じられたので自己紹介もそこそこにまずは自由時間!

子どもたちは我先に自分のやりたいところへ駆け出していく。木の上の展望台にいち早く上った子は、下にいる子を見下ろして上がってくるように呼びかける。ひらひら降りしきるヤマザクラの花吹雪を顔に受けながら、さらに高い大空を舞うトンビを目で追いかける。

高い枝にかけた間伐材のブランコに乗った子は、普通のブランコの倍はある巨大な振り子に全身を委ねて、風圧と重力を感じながら大地と木々と大空の間を遊泳する。

切り株を掘り起こした子は、ヤスデを見つけてみんなを呼ぶ。大人なら気味の悪さに目を背けるところだろうが子どもたちはたくさんの足と体の節が一体化した巧妙な体の仕組みに目を奪われている。

そう、子どもたちはもう立派な未知の世界の開拓者だ。先入観や固定観念にとらわれた大人たちと違って子どもたちの目の前には未知の世界がどこまでも拡がっていく。だからいつまでも飽きることがなくワクワクできる。

 

午前中は輪投げ作りとトイレづくりの2班に分かれて活動開始。輪投げ作りは、輪にするためのツタと、番号を書くための木の棒を藪から調達し、広場の片隅を拡げて設置するもの。
実は先月の里山開拓に会員だけで来て事前に試しに作っている。その際参加した先月入会したばかりで里山はほぼ初めての大学生会員が、今回は講師役となり、子どもたちに輪投げを作ってみせる。

講師役だからといって気取ったりかしこまったりする必要はない。何も決まったやり方があるわけでもないし、きちんと作ることがいいわけでもない。むしろ、開拓で出てきた里山の恵みを生かしつつ、自分自身の頭で考えて手で作ってみること、そして子どもたちと話し合って協力して作り上げることにこそ価値がある。

トイレづくりは、里山にいかにやさしく、そして使い勝手のいいものにするかを考えた末、ロの字に組んだベニヤ板を足場として真ん中に穴を掘り、テントカバーをかけたものとすることにした。食べるところと出すところでどう自然とつながるかは開拓団にとって重要なテーマだ。子どもたち、はじめてのノコギリやシャベルを手に木々を切り倒し土を平らにしてトイレの場所を拡げことに熱中する。

 

昼は開拓で出てきた石を積んだかまどにて伐採した枯れ木を燃やすワイルドなバーベキュー。昨日の雨で枯れ木が湿っていてなかなか火がつかず苦労はしたけれど、みんなでかんばった出来立ての野菜やソーセージのホイル焼きや手作りのおにぎりをほおばるおいしさといったら!

 

昼食後は自由時間。私から希望者を募って、すでに開墾した斜面の畑を再度耕し、腐葉土を混ぜ込んでじゃがいもの種芋を植える。

なぜわざわざ里山で野菜を栽培するのかというと、それは自然ともっと深くつながりたいからだ。自分で直接関わって里山の恵みを生かして里山で野菜を育てそれを里山で食べるということ――実際にはせいぜい月に数回しか行けないので、水不足で枯れてしまうかもしれないし、野生動物に食べられてしまうかもしれない。食べるには小さすぎるものしかできないかもしれない。

ただ、それでもかまわない。私たちは普段お金で簡単に買える「商品」を食べているが、それらも本当は自分の知らないどこかで育てられた自然の恵みである。ただそのことを大抵は自分の頭の中から消し去ってしまっている。この無神経さにこそ現代都市社会のもつ本当の怖さがあるような気がしてならないのだ。

かぶとむし養殖の方も同じ思いで取り組んでいる。里山にいくらでもある落ち葉が積んでおくと、微生物が分解して腐葉土となる。今回は私のボランティアの先輩がもってきてくれたかぶとむし幼虫を投入し、囲いの枠を補強する。かぶとむし幼虫は腐葉土を餌に大きくなって、夏になるとかぶとむしの成虫が姿を現すだろう。

多分大抵の都会の人にとっては落ち葉なんかに大した価値は感じないだろうが、私たち開拓団が落ち葉を手にとって透かしてみるなら、子どもたちのヒーロー、カブトムシを手にとって喜ぶ子どもたちの笑顔がはっきりと見えてくる!

楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰りのバス時間が迫ってきて足早に下山する。子どもたちとの別れ際に、私が前回と同様にまた来たい人!と聞くと「ハイ!」とみんなの手が大きく挙がった。

 

後日子どもたちに書いてくれたアンケートが送られてきた。2回の里山開拓で子どもたちとのつながりがさらに深まったせいか、こんなことがとても嬉しく感じられた。

☆前回気弱な面も見られた小2の男の子が、今回きょうたのしかったこと「きをきったこと」・たいへんだったこと「なし」と太いしっかりした頼もしい字で書いてくれたこと。

☆煙にまみれて一番苦労して火起こししてくれた小6の二人の男の子がたのしかったこととしてそろって「バーベキュー」と書いてくれたこと。

☆子どもにはなかなか価値が伝わらないのではと心配していた自然栽培について種芋をひとつずつ丁寧に植えてくれた小3の女の子が次回やりたいこととして「じゃがいものさいばい」と書いてくれたこと。

☆私の5歳の娘のことを妹のように世話してくれた小5の女の子がたのしかったこととして「焼きマシュマロ」と書いてくれたこと。もちろん娘にも焼いて渡してくれて娘は大喜びだった。

☆初めての参加で坂道のぬかるみに何度も足を滑らせて苦労していた小4の女の子がたのしかったことで「山のぼりがたのしかったです」と書いてくれたこと。

☆初対面のときはやや警戒して自分を出そうとしなかった小6の女の子が次回やりたいこととして「ひおこし、たあざんろーぷ、すべりだい・・・いっぱいあそびたい」と枠に収まらないほど書いてくれたこと。

これが子どもたちの正直な気持ちということなら、私は荒れた里山を一から手で開拓してボランティア団体を立ち上げてまで進めてきた活動の苦労が本当に報われたような気がする。

 

そして引率の先生からの感想にはこうあった。

「じゃがいも栽培やカブトムシ養殖は連続性が感じられる取り組みで子どもたちとの里山開拓を今後も継続的に続けていただきたい」

「初めて参加したのですが体験したことのないことばかりですごく新鮮で楽しかった」

児童養護施設側からこんな言葉をかけていただけること自体、私たちのボランティア活動の存在価値の証明であり、私たちボランティアにとっての何よりの報酬だ。

 

最後にひとつだけ書いておきたいことがある。開拓終了後も私にはどうしても気がかりなことがあった。それは私の5歳の娘を連れて行ったことだ。

実は、子どもたちが「パパ好き?」「ママいるの?」と娘に尋ねているのを何度か耳にした(娘は「うん」と普通に答えていた)。

当日夜早速、私から引率の先生にメールでこう尋ねた。 

 娘を連れて行くことについて、子どもたちにとってはどうだったのかなどご意見を伺えますと幸いです。
 お姉さんお兄さんに優しくしてもらえたり一緒に行動できたりしたことが本人はうれしかったようですが
 私に甘えているところも多々あったので子どもたちに寂しい思いをさせてしまったかもしれません。

引率の先生からはこんな返答をいただいた。

  娘さんが参加した件ですが、寮の子どもたちにとってとても良かったと思います。
  表現が難しいですが、普通の親子の関係を感じることが寮の子どもたちは少ないです。
  入所前の親子関係は我々の常識では考えられないものです。
  しかし、子どもたちは、それが基準(普通)となりがちです。
  親子関係をみて、子どもたちがさみしさを感じることがあれば、
  我々スタッフが寄り添い、ケアするきっかけとなります。
  私たちはそのように考えております。

子どもたちの前でもごく普通に娘と接していればいい、むしろそういう姿をみせることが子どもたちにとっていい、と先生から言われたことで私は本当に気が楽になった。

 

ごく普通にすればいい――

 

考えてみると、里山もまた全く同じメッセージをくれていたような気がする。ここにいる動物や植物はじめすべての生き物には、無理をしたり、比較したり、繕ったり、後悔したり、うらやましがったりしながら生きているものはいない。ここ里山では人間も他の生き物と同じく「自然体であれ」。 自ずから然るべき体を保っていればいい。何も無理をしたり、比較をしたり、繕ったりする必要はない。

 

私はこう確信するようになった。里山体験で大切なのは、里山に身を置く経験や里山を観察する行為そのものより心のあり方。肩の力を抜いて自然体でいること――

                        2012年4月 東京里山開拓団代表 堀崎 茂

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