NPO法人 東京里山開拓団

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

目指すところイメージ

 目指すところ>代表の思い>東京にふるさとをつくろう(2015年12月)

ふるさとがないという事実

ある民間調査によると、東京出身者のうち4割は「ふるさとがない」と感じており、子どもにとってふるさとがあった方がいいと感じる人は8割におよぶそうです。

http://www.athome.co.jp/contents/at-research/vol32/

ふるさとというとき、多くの人が思い描くのはこんなイメージではないでしょうか。
 「お盆や正月に帰ることのできる場所」
 「おじいさん、おばあさんが長年暮らしたところ」
 「自然あふれる田舎」
 「ゆったりした時間の流れる素朴で美しい世界」

これは人が多すぎて忙しすぎる東京の現実世界とは対極にあるノスタルジーなのかもしれません。

ここからは私の想像にすぎませんが(それでもかなりの確信をもっていることなのですが)、ふるさとがないと感じる人は世界中で増加の一途をたどるだろうと思っています。なぜなら世界中で地方から都市への人口集中は今後も続くでしょうし、これから都市で生まれて来る子どもたちの多くもやはりふるさとがないと感じるだろうからです。実際私自身についても、私が愛知県のふるさとから仕事で東京に出てきて子育てしているので子どもたちはふるさとがないと感じるようになるのでは、とぼんやり思ったりします。

さらに想像を拡げますと、この都市集中が生み出す不安心理というのは多くの人の心の中を分からないくらいほんの少しずつ、でも確実にむしばもうとしているような気がします。これはいざというときに帰るべき拠り所がないところから、あるいは何か別の存在で不安を埋めなければという焦りからくる都市生活者特有の慢性的な不安症状で、今どきの言い方にならうと「ふるさとロス」「ふるさと喪失症候群」とでも呼べるものなのかもしれません。


東京里山開拓団の試み

私の想像はどうあれ、都市に住む人にとって、ふるさとがどんどん遠い存在になっているのは事実です。東京の人にとってふるさとはこれからますますなど望むべくもない存在になってしまうのでしょうか?

実は、私たち東京里山開拓団は、東京にいながらにして自分たち自身の力でもう一度ふるさとを取り戻そうという試みを進めています。

私たちが新たなふるさとの候補地として選んだのは、「東京周辺の荒れ果てた山林」でした。ただし、そこは何十年も地主も地元の人も入ることがなくなり、藪や雑木で鬱蒼として道もなくなったところでした。そして、ふるさとを取り戻す対象として選んだのは、「児童養護施設の子どもたち」でした。ただ、子どもたちは様々な理由で親元から離れて暮らしていてふるさとをもつこととは程遠い状況にありました。

もしかしたら、一番遠いところからのスタートだったかもしれません。それでもやろうと思いましたのは、一番遠いからこそ個人としても社会としても取り組む必要性を感じたからです。それにもし一番遠いところからでも実現できたなら、どんなところでも誰にとってもふるさとを取り戻して心豊かな生き方を実現することができるかもしれないと思ったからです。

私がはじめて八王子市にある荒れた山林に行ったのは2006年でした。まず鬱蒼とした藪に分け入り自分の手で山頂への道を伐り拓くところからスタートしました。手作業なので1日で数十メートルしか進まないときもありました。また視界のきかない森では自分がどこにいるかも分からなくなることもありました。  

それでも通い続けているうちに道や広場ができてきました。自然の恵みへの知識や活用の知恵が増えてくると、次に進めたのは東京での自分の生活がどうしたら豊かになるかという試みです。山に雨水タンクを設置したり、ツリー展望台やブランコを作り上げたり、畑を作ったり・・・楽しくないと人は集まってきませんし、自ら実践していない人の言葉なんて誰も信用しないと思いましたので、自分が楽しいと思えることは何だって徹底的にやりました(笑)

そして、家族、友人、知人と誘っていくうちに、里山にまた行きたいという声が増えてきました。何回通っても飽きることなく、かかわるほど自然の魅力は拡がるばかりでした。反響が想像以上だったので、私たちは自分たちで楽しむだけでなく、もっと社会に貢献できる形で進めてみたいと考えるようになりました。

2009年にボランティア団体として東京里山開拓団を設立し、ボランティア仲間を広く募って、里山の開拓を継続しました。関係者の理解を得るのにしばらく手間取ってしまいましたが、2012年からついに児童養護施設の子どもたちとの里山開拓を開始しました。その後毎月のように通うようになり、2015年までに26回・のべ150人ほどの子どもたちが参加してくれました。少しずつメンバーは入れ替わっていますが、多くは繰り返し参加してくれています。そして今では里山にいるときはみんながまるで大きなひとつの家族のような一体感を感じられるまでになりました。

  
里山で得られる実感

私たちが行っていることは一見、自然のなかで子どもたちと遊ぶ活動のように見えるかもしれませんが、実際にはそれにとどまりません。

この里山では、誰でも自然とのつながり、四季の移ろい、自然の恵みの豊かさ、遠くに見える都会のちっぽけさなどを感じとることができます。大地にしっかり足を踏みしめて、自ら伐り拓いた空間で新鮮な空気を吸い込み、少しばかり自然の恵みをいただきながら、たくましく生き抜いているたくさんの生命の一部としてそこに存在していることを実感できます。

それと同時に個人的にはこんなことも感じます。木漏れ日のなかでハンモックに揺られているとき、私は自分の生まれ育った実家の日当たりのよい部屋のソファでのんびりしている時間を思い出します。雨水タンクの冷たい水に触れるとき、私は寒さの厳しい山村部にある母の育った家の洗面所の水を思い出します。焚き火の煙にむせながら火を起こすとき、私は小学校に上がるまで薪で焚いていた五右衛門風呂のかまどの煙や、祖母がいつも近くに置いていた火鉢からの炭火の香りを思い出します。焚き火からジャガイモを取り出しバターをつけてはふはふして食べるとき、私は小遣いを握り締めて行った夏祭りの夜店の味を思い出します。みんなで自然の恵みを使って水鉄砲やテーブル作りを進めるとき、クラスのみんなと体育祭で騎馬戦をしたことや学園祭のテーマ発表で教室を見違える空間に変えたことを思い出します。

  

ふるさとをつくるために

試行錯誤のなかで、ここをふるさとにするために自分なりに考えつきましたのはこんなことです。

1.「ふるさと」をつくるためにはどうしたらいいか

 同じ空間と時間を親しい仲間とともに共有し、心の奥底で脈々と流れ出る生命の根源に触れる試行錯誤しながらお仕着せではない本物の経験を積み重ねることによってはじめて、子どもたちの心に「ふるさと」が生まれる。

2.「ふるさと」に必要な要件

(1)豊かな自然に直接関わって実感できること
(2)気兼ねなく繰り返し通えて自分たちの場所と心から思えること
(3)お仕着せではなく自分たちで作り出した時間と心から思えること
(4)親しい人とともに心から楽しい体験を共有できること

これらは登山で行く山や自然体験施設でも満たせない高い要件ですが東京里山開拓団では児童養護施設の子どもたちとともに要件すべてを十分に満たすように進める。

3.「ふるさと」に通う頻度

私たち東京里山開拓団は、この「ふるさと」に月に1回里山に通うことで児童養護施設の子どもたちがこれまで積み重ねられなかった年月の分まで心の中にふるさとを建設する。

これは途方もないハイペースで1年で12回通えば、中学にはいるまで毎年ふるさとに帰省していた子どもと同じ回数。

私たち東京里山開拓団は、こんなことを意識しながら自分たち自身の力でもう一度ふるさとを取り戻そうという試みを続けてきました。この試みの成否はもう少し時間をかけて判断する必要があるかもしれませんが、子どもたちが繰り返し楽しみにして参加してくれる反応を見る限り、しっかりとした手ごたえを感じつつあります。

ふるさとの社会的価値

それでは、そこまでしてふるさとを手に入れたとしても、

社会的にみるとどんな価値があるのでしょうか。

私たちは大都市・東京に住んでいます。

都市社会は、便利で快適、進歩的であり魅惑的です。

だから、世界中のいたるところで人々は地方から都市へ移動し都市化は進む一方です。


あまり知られていないことですが、東京は世界の大都市のなかでも究極的な存在です。行政区ではなく集積度でとらえる国連の定義によると、東京、神奈川、埼玉、千葉を含む「東京圏」は約3500万人と世界でもダントツに多く、しかも2030年までは上海もデリーもニューヨークも追いつけないと予測されています。一方で東京にも、世界の大都市と共通する多くの都市問題が横たわっています。

大都市は地球上の大量の資源を集めて使い捨てにすることで成り立っているのに、消費者は時に神様扱いまでされて日々意識することもありません(隣の山は都市のために土砂が削られて存在すらなくなろうとしています)。

多くの人間もまた自然資源と同じように粗雑に扱われます。都市社会は人々の間に競争を生み、欲をあおり、利権と階層を生み出して、人々の心のなかに必要以上の敗北感、自己喪失感、無気力を残します。都市社会の権力と資本の圧倒的な力の前に個々人の存在はあまりにも非力でちっぽけです。そしてもしお金が尽きてしまえば、都市に居場所はなくなります。

都市は洗練していて先進的な顔の一方で、お金がないと助けてくれる人も居場所もない非情な顔も持ち合わせています。

だからこそ、人々はいざというときに受け入れてくれる懐の深さがあって、薄っぺらな都市社会での暮らしをもっと精神的に豊かにしてくれる存在を心から求めています。人々がふるさとを求めるのは単なるノスタルジーからではなく、このような都市社会の現実的な要請からではないでしょうか。

そんな現実が前述の民間調査の通り、人々がふるさとを心から求める結果の背景にあると考えています。

児童養護施設の子どもたちと会うとき、子どもたちに決して罪はなく、都市社会のひずみの深さ、社会のセーフティネットの薄さを感じざるを得ません。特に子どもたちは18歳になると自分ひとりで生きていかなければならない厳しい環境に追い込まれます。それでも、子どもたちは小さな体で社会の厳しさを受け止めて生き抜いていかねばならないのです。

私たちはそんな子どもたちに対してボランティアでないとできないこと、ボランティアだからこそできることがあるはずと思っています。将来いつか社会の荒波のなかで迷うことがあったらいつでも里山に焚き火をしに戻ってきてほしいし、仲間や後輩、大人たちと語り合う場ができるといいなと思います。

できればいつかここ里山で少し働くことができる環境も作ってみたいと思っています。そして、大都会で疲れた心も体も懐もすこし温まるようなそんな運営がしていきたいと思っています。
社会のセーフティネットがほころびを見せるなかで、私たちはこの里山をふるさとのような心のセーフティネットを作り上げて行きたいと考えています。それは大都市のあり方へのささやかな問題提起でもあります。

「心のセーフティネット」という存在は公的支援が全く手の回っていないところでもあります。公的な支援によって立派な建物は建つかもしれませんが、そこを「家庭」に変えていく一番大変な部分は児童養護施設の職員の方々や支援者の献身的な努力で成り立っています。そこで私たち東京里山開拓団は児童養護施設のみなさんと一緒になってここ里山に「ふるさと」を作り上げようとしています。

これはお金をかけてもおそらくは実現できないことであり、豊かな心を育むためにはとても価値のあることなのではないかと思うのです。

  

東京にふるさとをつくろう

改めまして私はこう考えます。

ふるさとというのは私たちの外にある場所のことではなく、私たちの中にあるこころの有様なのではないでしょうか。つまり、ふるさとは一人一人の心の中にあってお金で即手に入れたりすることなんかできなくて、自分自身がひとつの場所にて経験とその記憶を積み重ね、それが親しい人たちの心と響きあって形作られる存在なのではないでしょうか。もしそうなら、誰であってもきっとふるさとを今一度作り上げることができるはず――

東京周辺の荒れた山林、帰るべきふるさとのない子どもたちに目を向けて、ふるさとから離れている自分自身、これから生まれてくる子どもたちにも目を向けて、ここ東京でこれからふるさとを一緒につくり上げていく。そのために特別なことは必要ありません。必要なのはただ「ふるさとをつくろうという思い」です。思いのある人々の心のなかにのみ、ふるさとはつくられます。ここ数年私たちはクリスマスには1年間の写真をアルバムにして児童養護施設にプレゼントしています。加えて今年は子どもたち一人一人に写真と間伐材で手作りした写真立ても届けました。ここでの経験が子どもたちにとって「ふるさと」の思い出となることを願いながら・・・


                     2015年12月 東京里山開拓団 堀崎 茂

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