NPO法人 東京里山開拓団

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

目指すところイメージ

 目指すところ>代表の思い>里山という共同幻想(2018年1月)

  

子どもの妄想

東京里山開拓団は、荒れた山林がどうすれば社会的に活用できるかというテーマに取り組んでいます。これまでに10年ほど試行錯誤する中で、様々な事情で家から離れて共同生活をする児童養護施設の子どもたちとともにふるさとを作り上げる取り組みこそが最も価値ある活用の一つになるはずとの思いに至りました。ここでいう「ふるさと」とは、懐かしい思い出があふれていて将来何か困ったことがあっても心の支えになってくれる場所のことです。

児童養護施設との里山開拓は6年間で合計46回実施し、のべ250人以上の子どもたちが参加しました。ただ、子どもたちにとって本当に里山がふるさとのような存在になっているのかは常に検証しないといけないとも思っています。すでにたくさんの人や団体から知恵と労力と資金を提供いただくようになりましたので、掛け声倒れや独りよがりであってはいけないからです。

この検証というのは実際にはとても難しいのですが、ここでは子どもたちや施設職員とのやり取りの中から本当に里山がふるさとのような存在になっているのか改めて考察してみたいと思います。2017年のよく晴れた冬のある日、里山で本物の忍者となるべく木刀や手裏剣、隠れ蓑を作る企画を行っていた時にこんな出来事がありました。

私はある小学生と一緒に木刀を作ることになりました。とても積極的で素直で明るい男の子です。木刀は雑木を自分で伐ってきて作ります。他の子が私のところに伐った雑木をもってきて「なんていう木?」と尋ねてくると、男の子が「樫の木じゃないかな」と私より早く答えてくれました。また、小刀の使い方も刃先を安全なところに向けて振り下ろすなどずいぶん手慣れていました。

私が「すごい、慣れてるね~」 と伝えると、彼は嬉しそうにこんな話をしてくれたのです。

ぼく、お父さんとよく木の工作をしていたんだ 
お父さんは木の職人なのでとっても上手なんだ

その場ではなるほどだからかと納得していたのですが、後で職員の方からこう言われたのです。

実はお父さんはいなくて、本人の妄想だと思います
あるいはお母さんがそう伝えたのかもしれません
普段は心を開かない子で自分からは話さないのですが

後日施設を訪問した際、彼の生い立ちも教えてもらいました。それは私の想像をはるかに超えたものでした。正直、彼の「妄想」をどう受け止めたらいいのか戸惑いました。実は以前、似たようなことが他の子どもでもあったのです。その子はやや無口な小学生でしたが、協力して火を起こした焚き火料理を食べていた時、親と一緒にレストランで食べた思い出を楽しそうに話してくれたのです。でも後で職員の方から、親はすでに亡くなっているんです、と伺ったのです。今回話しが少し異なるのはそれが実体験ではなく妄想かもしれないという点です。ずっと里山に一緒に取り組んできた別の児童養護施設の職員の方に今回の出来事を話すと、こんな意見を伝えてくれました。

 

児童養護施設の子どもが親の妄想を持つことはしばしばある
ただ妄想だからといって否定するようなことはしない
「意味世界」と呼んでいて本人にとっては大切なもの
何か意味があってそういう思いが出てくるのだからその背景を考えるようにしている
子どもが親の話をするときは特に意味があるので伝えてほしい
職員も知らないことがあり帰ってから何気なく尋ねることでさらに背景を知ることができる
子どもたちから今度の里山はいつ?とよくきかれる
なかには家庭復帰よりも里山の予定を優先したがる子もいる
かつて里山に参加した子どもは参加しなくなっても今回はどうだった?とよく尋ねてくる
子どもたちが里山に通って少し距離のある大人と話す中で子どもたちに変化が表れているのを感じる

そして、こうとも加えてくれました。

子どもたちの心には行かなくなっても里山があるんですね

この言葉をいただいて、仮にお父さんのことが彼の妄想であったとしても、本人にとってそれが楽しい思い出ならやはりかけがえのない大切なものであること、里山という場だからこそ2回しか会っていない私にもそんな大切な話を心を開いてしてくれたことを改めて認識しました。そして、私たちの里山が子どもたちの心の中でふるさとのような存在に確実に近づいているのを感じたのです。

  

現代都市社会の共同幻想

よく考えてみると、男の子の話しを「妄想」という以前に、荒れた山林に自分たちの手でふるさとを作り上げようという取り組み自体が妄想のようなものです。普段の生活を現実というなら、私たちは現実では見られないものをみんなで一緒にそこに見て、心の中に作り上げようとしています。それは「共同幻想」といえるのかもしれません。

たとえるなら、私たちの里山開拓は、昔はどこにでもあったふるさとのお祭りのようです。お祭りでは、踊り手・担ぎ手・お囃子衆といった担い手はもちろん、ちょっと見に来た人までが音色や掛け声、提灯の明かり、屋台の匂いなどに誘われてぐんぐん引き込まれていきます。お祭りがささげられる神様の前では、普段の生活の苦労とか悩み、あるいは周りとの差や違いなどは本当にちっぽけなことであって、参加しようとする人はそんなちっぽけな自分の殻なんか脱ぎ去って今ここで行われていることに夢中になります。そしてみんながお互いに心を開くことによって生み出された共同幻想は、みんなの心の深層に刻まれていくのです。

私たちは丁度同じようなことをこの里山で行っているのです。参加する児童養護施設の子どもや職員、準備運営を行う会員は、たくさんの木々や動物たちに囲まれた大自然のなかの自分たちで作り上げてきた舞台に上がります。みんなの笑い声、焚き火の輝きと暖かさ、料理の香りに包まれながら、みな普段の生活から離れて心を開いて入り込んでいきます。そして活動を陰で支える支援者も含めて関わるみんなが一緒になって里山という共同幻想が作り上げられて心に刻まれていきます。

共同幻想が単なる共同作業と異なるのは心のあり方です。普段とは違う特別な雰囲気の中で他の人たちと場と時間を共有し、自分という殻を脱ぎ捨てて心を解き放ちます。すると、心の奥底に眠っていた共通の記憶が呼び起こされ、眠っていた魂が目覚めていきます。それは偽りでない本当の自分との出会いでもあります。そしてその記憶は五感とともに心のなかに深く刻まれていきます。しかし、現代都市社会の中では妄想・幻想・夢といった想像なんて現実的ではないと切り捨てられることがしばしばあります。特に古くからの日本社会で行われてきた「共同幻想」は、戦後の都市社会のなかで科学万能主義・合理主義・個人主義の時代にあって古臭く、迷信的で、価値がない存在として切り捨てられてきた歴史があります。

私たちの共同幻想についても本当の価値までなかなか理解を得られにくいのは、そんな歴史が影響しているのかなと思います。子どもたちとツリーハウスを手作りで作るとか、ふるさとをつくるなんて、夢みたいな話だねと皮肉を込めた感じで言われたこともあります。もっとストレートに、里山にふるさとをつくるなんて夢のようなことに取り組むより、もっと現実的な支援、例えば学歴をつけてお金を貯めて安定して暮らすための術を伝えた方がためになるのではと言われたこともあります。私自身は山林の荒れ果てた現実、児童養護施設の子どもたちの置かれた現実を見て現実的なニーズを感じてやっていることなのですがなかなかそうは受け止めてもらえないことが多いのです。

でも、そもそも現実と想像を切り分けることなんてできるのでしょうか?実は、現代都市社会の方こそ朧げな共同幻想で成り立っているのに、と思うのです。商品の広告は共同幻想をかきたてます。これを買うだけでまるで自分がCMの美男美女に生まれ変わることができるかのようです。しかしもちろん生まれ変わることなんてできなくてお金をすって終わることもよくあります。また、家や保険のように夢やリスクをあおられて到底手元のお金だけでは買えないものまで買わされて、かえって将来の自分を拘束されてしまいます。

会社だって共同幻想そのものです。それが永続するという信用があってこそ社員は自分の人生をささげ、お客は製品やサービスを購入し、銀行はお金を貸します。しかし信用を失うことがあると簡単に共同幻想は消え失せていきます。

お金だってそうです。お金は金との交換できなくなって以来、誰かが受け取ってくれるはずという共同幻想の上に成り立っています。しかし、その共同幻想に疑念が生じるとあっという間に価値は失われていきます(戦後日本でも実際に起こったことです)。共同幻想の外から見ると、単なる紙切れを得るために人生の時間の大半を注いでいたということになる訳です。ビットコインなど共同幻想そのものかもしれませんし、昨今の金融緩和政策など本質は慎ましく暮らす庶民の共同幻想の悪用なのかもしれません。

大人はしばしば子どもに対して、夢ばかり見ずにもっと現実的に生きなさい、とさもしたり顔でいいます。しかし、朧げな共同幻想で成り立っている現代都市社会の中で、現実的に生きるとは一体どうすることなのでしょうか。その共同幻想の中に入り込むこと?長いものに巻かれて生きること?いくら巻かれていても大多数は使い捨てにされてしまうだけでは?過去の歴史を振り返ってみてもそれは本当に現実的?

冬の里山ではタヌキたちが家族や仲間と寄り添いながらたくましく生き抜いています。私たちも今、現代都市社会の中で生きていますし、どんなことがあったとしても生き抜いていかねばなりません。子どもはさらに今の大人が知ることもない時代の先まで。本当に大切なのは、不確実性の時代にあっても、周りに惑わされることなく、自分にとって本当に価値のあるものを自分で見極め、できれば本当の仲間とともに簡単には消え去らない本物の共同幻想を作り上げていくことなのではと思えるのです。

私たちにできることは、子どもたちとともに荒れた山林を伐り拓き、苦労や疲労、達成感や楽しさなどの思い出をたくさん積み重ねてふるさとを作り上げていくことという本当に小さなことです。それでも毎月通っている児童養護施設の子どもたちにとっては荒れ果てて何十年も人の入らずに荒れ果てた山林がすでに「自分の場所」になりつつあり、ツリーハウスをはじめとする設備や道を手作りするなど深くかかわることで、みんなの心に「ふるさと」として根付きつつある手ごたえを感じています。

いつか子どもたちが大人になって何か困ったことがあってもまたちょっと行ってみようかなと思えるような場となるなら、そして、こんな共同幻想がもし現代都市社会の状況が激変したとしても生き抜いていくための心の支えとなるなら――そんな共同幻想だったらぜひ一緒に見続けていきたいものだとつくづく思うのです。

2018年1月 東京里山開拓団 代表 堀崎 茂

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