NPO法人 東京里山開拓団

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

     

東京の荒れた山林を児童養護施設の子どもたちとともに開拓し自然の恵みを活用するボランティア団体です

目指すところイメージ

 目指すところ>代表の思い>よりたくましく、よりすこやかに生きる方法(2021年3月)


「生きる力」という言葉は、全国の学校が教育カリキュラムを作る柱となる学習指導要綱では1998年にはじめて唱えられ、それ以降も中核となり続けている概念で、確かな学力、豊かな人間性、健康・体力の3つの要素からなるそうです。ただ、読んでみても、あたり障りがないというか、表面的というか、響かないというか・・・

20年以上経つというのに、なぜ子どものいじめ、不登校、学級崩壊、メンタル不調、自殺は増え続けているのか、なぜ学校は受験予備校化し格差の温床となっているのか、そしてそんな結果を政府や教育関係者はいったいどのように総括し改善してきたのか、本当に知りたいものです。公的な財源や権力にすがる人たちが寄り集まって考えてやろうとするばかりの「生きる力」だからあまり期待する方が難しいのかもしれませんが。

そんな親としての一感想はともかくとして、ボランティア活動では、今目の前に存在する社会の課題と直接向かい合いながら、体裁や配慮など本質的でないことは後回しにして、社会の課題を克服するための本物のよりどころを自ら見出して行動を続けていく必要があります。

私たち東京里山開拓団が掲げているのは、「よりたくましく、よりすこやかに」という運営方針です。

これは2008年に私が絵本作家のかこさとしさん(故人)に当団体立上げの構想をお伝えした際に頂いたお言葉で、今もとても大切にしているものです。

かこさとしさんは、戦闘機乗りにあこがれた軍国少年時代を経て、戦後は大きな失意を胸に民間企業の研究者として働きつつ、休日は川崎の貧しい子どもたちの支援をするセツルメントというボランティア活動に没頭されました。その中で子どもたちのために描いた紙芝居がたまたま出版社の方の目に留まり、やがて日本を代表する絵本作家、こどもの遊び研究家の道を歩んで行かれた方です。

『みらいのだるまちゃんへ』という自伝の中にはこんな一節があります。

生きるということは、本当は、喜びです。生きていくというのは、本当はとても、うんと面白いこと、楽しいことです。もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どもたちから教わりました。遊びの中でいきいきと命を充足させ、それぞれのやり方で伸びていこうとする。子どもたちの姿は、僕の生きる指針となり、生きる原動力となりました。それを頼みにして、僕はここまで歩いてきたのです。

こんな思索を深められた偉大なる先達から丁重にも頂くことのできたお言葉を胸に、私は、いったい現代都市社会にあって、よりたくましく、よりすこやかに生きるというのはどういうことなのか、そのために何をすればいいかをずっと考えていました。

それは、かこさとしさんからこう問いかけられたように思えてならなかったからです。

「いったい、君のやろうとしている活動で本当によりたくましく、よりすこやかになれるのかな?」

世の中には大人が子どもたちに勉強や仕事、お金、生き方などについて各種知識を教えたり手助けしたりする意義あるボランティア活動はたくさんあります。ただ、批判する訳ではないのですが、私にはそれで子どもたちがよりたくましく、よりすこやかに生きていけるようになるようには思えませんでした。私にはどこか、社会の椅子取りゲームのノウハウを伝えているだけのように見えたのです。マクロで見たら、結局は誰かが椅子に座れても誰かが座れなくなるだけで社会の現実は一切変わっていないようにも見えました。

現代社会の現実は厳しく、不合格、不採用、離婚、失業、倒産、病気、怪我、事故、死別など人生の様々な機会に、誰もが失敗のリスクにさらされます、いやもっと正確に言うなら、この椅子取りゲーム社会では必ず椅子に座れない人が数多く生まれるルールになっているのです。それは個人の努力不足などで片づけられる問題ではありません。

しかし、もし仮に失敗したとしても、私たちは、不合理を嘆いてばかりでなくなんとかして生き抜いていかなければなりません。「失敗してもなんとかして生き抜いていける力」、これこそがよりたくましくよりすこやかに生きる力なのではないかと私は考えるようになりました。

でも、そんな力がいったいどんな方法で身につけられるのか、私の思考&試行錯誤が続きました。荒れた山林にひたすら通って徒手空拳で対峙し、できると思っていたのに何もできない自分のなさけない姿を突きつけられ、それでも何とかしてそこに自然の本当の価値や自らの生きる力を見出そうとしました。里山は現代都市社会とは真逆の世界で、そこにこそ現代都市社会のひずみを解くカギがあるような直感がしてならなかったからです。そんな中で、私なりにたどり着いたのはこんな方法でした――

ここ里山で、私たちがここでやっていることといえば、観察して、作業して、飯食って、遊んで、しゃべって、一休みするという一見ごく平凡なことです。

それなのに、そんな一つ一つのことが、ここではあまりにも楽しくきらきらと輝いて美しく感じられるのです。里山では、年齢も立場も学歴も所属も肩書もお金も知識も、おおよそ現代都市社会で重視されるものがほぼ役に立たず、あらゆる人が差別なく対等にありのまま受け入れられます。根っこを掘り起こす野良作業がとてつもない達成感を与えてくれます。スーパーのさつま芋一つがあつあつほくほくで体に染みわたるような至福の満足感を与えてくれます。木漏れ日とハンモックに包まれてここにいるだけで究極の光に包まれているような安ど感を与えてくれます。誰かが一緒にいればそんな感覚を口に出さずとも表情だけで共有できます。もしかしたら私たち人間だけでなく、ここにいる動物も昆虫も草木もみな、余計な考えで頭がいっぱいになることなんかなくて、ただ自らが生きることそのものを五感で充足し、それでいて周りの世界を輝かせ、一つ一つの存在がつながりあって里山全体を作り上げる重要な役割を担っているようにさえ思えます。

そう、ここ里山では、「自分の何かを変えようとしなくとも、周りとつながってただありのままいるだけで、生きることそのものを楽しんでいる自分がいまここに存在する」という事実にはっきりと気づけるのです。だからこそ、命の危険にさらされて児童養護施設にやってきた子どもたちは、この里山にやってくるとまさに自らの中で眠らせていたそんな事実に誰よりも早く直感的に感じて、ずっぽりとはまっていくのではないかとも思うのです。

そしてその先にはさらに驚くべきことが起こります。そんな子どもたちの里山でありのまま楽しんでいる姿が、周りの大人たちの心をも共鳴させ、大人たちにも人生の中で長らく心の中に封印してしまっていた自らの楽しく生きる力に気づかせてくれるのです。それはまるで、春先に枯れ木のように見えていた枝先ひとつひとつに吹出した新芽のようです。新芽は誰かのために芽吹いたわけではなくただ自ら生きんとしているだけなのに、それを見る人たちに自らにも生きんとする力が内在していたことに気づかせ、実際にそんな力を授けてくれるのです。

私には、今はっきりと見えてきたことがあります。よりたくましく、よりすこやかに生きる方法とは、おそらく、現代都市社会のひずみを生み出した大人が偉そうに子どもに知識やノウハウを伝えたり、子どもたちが矛盾を抱える現代都市社会に無理に合わせて自分や環境を変えるのを支援したりするなかで身につけられるものではありません。

それはきっと、すべての人が、いやすべての生き物が元々もっている生きる力が今ここに存在している事実に自らはっきりと気づくことによって、自ずから発揮されるものなのです。それこそが、人生の中で何か失敗するようなことがあったとしても、そんな状況を軽々と乗り越えて次なる一歩を踏み出す原動力となります。私たちの活動は、大変なことがあったとしても自分を無理に変えようなんてしなくてしなくていい、むしろありのまま生きることそのものがいかに楽しくて価値のあることかをはっきりと感じられるようなそんな取組みでありたい、とつくづく思うのです。

2021年3月 東京里山開拓団 代表 堀崎 茂

 

全国最大級の里山紹介サイト 日本ノ里山ヲ鳥瞰スル

NPO法人 東京里山開拓団

inserted by FC2 system